10月6日の里見日本文化学研究所の学術研究大会では、
シナ男系主義(父系制)の影響を受ける前の
古代日本の基層の親族組織は、
男系でも女系でもなく、
双系(双方)的な特質を持っていたとの見解が現在、
研究者の間では通説の位置にあることを紹介した。
その上で、それを補強する素材として、6世紀の人物
「物部弓削守屋大連(もののべのゆげのもりやのおおむらじ)」
(生年は不明、没年は西暦587年)に言及した。
この人名は『日本書紀』や『公卿補任(くぎょうぶにん)』などに
出てくる。
仏教の受け入れをめぐって、
蘇我馬子と激しく対立したとされる古代史上、著名な人物だ。
だが、ここで注意したいのは、その事績ではなく、名前そのものだ。
「大連」は当時の朝廷の最高執政者の称号。
その地位は「大臣(おおおみ)」に並ぶ。
「守屋」は、言うまでもなく個人名。
「物部」は勿論、氏(うじ)の名だ。
では「弓削」は? 最新の『日本書紀』の注釈書である
小学館の新編日本古典文学全集本では、
「『和名抄(わみょうしょう)』にみえる
『河内国若江郡弓削、由介(ゆげ)』(大阪府八尾市弓削町)
の地による名か」と、自信なさそうに記す。
守屋と弓削の地との繋がりを、うまく説明出来ないからだろう。
じつはこの注記は、
先行する岩波書店の日本古典文学大系本に
「住地による名か」として、
『和名抄』を引用しているのを踏襲したもの。
『和名抄』は、正しくは
『倭(和)名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』で、
源順(みなもとのしたごう)が編んだ
我が国最古の意義分類体の漢和辞書。
931〜938年頃の成立とされる。
ところがこの大系本の注記も、
明治時代に刊行された飯田武郷(いいだたけさと)の
『日本書紀通釈』の記事を踏襲していたようだ。
更に『通釈』を見ると、
谷川士清(たにかわことすが)の『日本書紀通証』に拠って、
『和名抄』の記事を紹介している。
谷川士清は本居宣長とも交流があった江戸時代中期の国学者で、
主著『日本書紀通証』35巻の完成は1751年。
すると結局、この人名については最新の『日本書紀』注釈書も、
今から260年以上も前のレベルを、
一歩も越えていないことになろう。
そこで改めて、物部氏の事績を多く収める
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』(平安時代初期に成立)
を覗く。
すると、守屋の父が物部尾輿(おこし)で、
母が弓削氏の阿佐姫(あさひめ)だったと
明記しているではないか(巻第5「天孫本紀」)。
ということは、「弓削」は母親の氏の名を受け継いだのに他ならない。
勿論、弓削氏の「弓削」は元々、河内の地名の弓削に由来する。
だが、守屋が弓削を名乗っていたのは、
直接にはその地名によるのではない。
母の氏の名を女系で継承していたのだ。
よって、『日本書紀』などの「物部弓削」との呼称は、
父と母の氏の名が双系的に継承されていた事実を示す、
貴重な史料ということになる。
血筋が男系のみによって受け継がれ、
女系による継承は一切ないと考えられていたのなら、
こうした事例は現れないだろう。
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